敬称略
初代 川手 修三(2番地)
昭和33年8月〜37年5月
2代 千葉 正義(14番地)
昭和37年6月〜51年6月
3代 横田 喜助(8番地)
昭和51年6月〜55年5月
4代 大宮 松三(6番地)
昭和55年6月〜62年5月
5代 森田 實(4番地)
昭和62年5月〜 平成8年5月
6代 秋山 齋(8番地)
平成8年6月〜10年5月
7代 池田 亮一(2番地)
平成10年5月〜17年3月
8代 小端 協一(6番地)
平成17年4月〜22年5月
9代 横田 達之(8番地)
平成22年6月〜

8番地にあった東京顕微鏡院
北2町会が自慢できる研究所が明治から大正時代にありました。詳しくは左の「遠山椿吉 魂の系譜」をクリックしてご覧ください。
2010年8月25日東京顕微鏡院リンク承認済


明治時代には、ここ8番地には、稲葉丹後守の別邸として1787(天明7)年に建てられた由緒ある建物がありましたが、ここに明治24年創立の「東京顕微鏡院」が1896(明治29)年に移転。開院式には、官界を含め学者など百数十名が参列したということです。内部には、講堂、実験室などが設けられ、多くの学生が、当時の先端医療機器である顕微鏡を使った顕微鏡術や臨床的検査法などを学び世に出てゆきました。


1915(大正4)年、講堂や実験室、診察室、談話室などを備えた二階建てに改築されました。しかしこの建物は、関東大震災で惜しくも消失、院は九段に移転し現在に至っていますが、東京顕微鏡院は明治から大正にかけて27年間に亘り、この神田小川町で公衆衛生の向上に大いに貢献していたということです。
平成の時代にはこの場所には「松井理髪店」「神田和泉屋」「ぽんち軒」「沖縄そば すばや」が並んでいます

四番地にあった銭湯「稲川楼」
この辺り一帯を屋敷にしていた稲葉家の重臣が銭湯を開くということで大騒ぎになったそうですが、時代を読んで決断をしたと伝えられています。「楼」は高い建物を表す言葉であったようですが、家柄の高さから周辺からは異論が出なかったとか、「稲川楼」の「稲」は稲葉家から「川」は小川町からと伝えられています。明治2年の創業。かつては靖国通りに面してあったようで、版画の右側3軒目の石の塀と門柱のある建物がこの銭湯です(現在の原久洋服店やヴィクトリアエルブレス)。その後、裏通りに移つり、戦争で焼けて煙突とタイルの浴槽だけが焼け野原に残っていましたが、やがて再建。平成4年に店を閉じるまで、実に123年ものあいだ営業を続けた、地域にとてもなじみの深い銭湯でした。子どもの頃に、ふざけて洗い場を走ると、ご近所の大人に濡れた手ぬぐいでパシッとふくらはぎを叩かれたこと、大人湯の浴槽に水を入れて「うめるんじゃねぇ」と怒られたこと、大人になってからは、祭が終わると「風呂券」が配られ、稲川楼でひとっ風呂浴びて、神輿でかいた汗を流し、直会(なおらい)宴会をしたことが懐かしく思い出されます。平成の現在は「平和堂ビル」駐車場となっています。

大平洋戦争の少し前に撮られた写真です。「防火用水」に小川町四之部第八隣組の文字が見えます。木製の車に乗っているのは現町会長の横田です。10番地の南西の角、今の「十三や」さんの前。
30年くらい前の北2町会役員 於 幸徳会館3階 平成22年にはこの内4人のみが生存
千葉さんだ!木村左官屋のおかあさん、水道工事店の前場のおかあさん、図書館用品のキハラのおかあさん、小池のおじさん、全員今は故人です。 昭和38年10月
昭和52年11月23日 伊豆土肥にて
こどももたくさんいました 今はもうみんな40歳です

昭和34年後楽園内の料理屋さんで


四番地にあった銭湯「稲川楼」の左隣にあった町会事務所がお祭りの時は神酒所でした



三丁目にあった木造のキッチンひさごの前 右隣は三五ビル その先は小川小学校

左が稲川楼です 神輿は三丁目に向かいます
靖国通り 三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)前を小川町交差点方向に進む神輿

クリックすると平成20年5月の写真が見られます